「世界の見え方が変わる」とはこのことだ。
場面場面で人は演じ分けこそすれど、核となる本当の自分、つまり自我は一つしかない。
当たり前のように感じてきたこの前提が、我々を苦しめることがある。
平野氏が提唱する「分人」の考え方では、「本当の自分」は存在しない。
自分が見せる様々な顔の全てが本当の自分。
そう捉えるだけで、いじめやパワハラなど自分の身に起きる不幸への前向きな対処法も見えてくれば、今感じている幸せをよりパワーアップすることもできるのだ。
「私」とはただひとつの存在?
誰しもが、対面する相手やその場のシチュエーションなどによって様々に「チューニングされた自分」がいることは自覚しているだろう。
そうしたさまざまな自分を著者である平野氏は「分人」と定義する。
それぞれの「分人」は「どれも本当の自分」であって、これら「分人」の集合体こそが人であるという考え方だ。
一方、従来の捉え方、つまりコアに自我(本当の自分)がある上で、その都度仮面を被ったりキャラの演じ分けをしている、というのは誤った考え方だという。
①誰とも「本当の自分」でコミュニケーションが図れなくなる
②仮面やキャラだと硬直的。実際には、関係性の中で自分も変化する
③「本当の自分」には実体がない=ただの幻想(分人には実体がある)
よくある話として、自分の知り合いが他人と接している時に、見たことのないキャラクターに遭遇して違和感を覚えることがある。「あんなキャラじゃなかったよな・・・」とまるでその人が違う顔でも操っているかのように、そのことをネガティブに捉えることはないだろうか。
しかし「分人」の考え方であれば、それは当たり前のこととして説明される。
人は、ベースとなる本当の自分がいるのではなく、単に状況にあわせて様々な人格がでてくるだけなのだと。自分が知っているあの人も、相手や立場、環境によっては同じ「あの人」ではなくなる。なので、自分と接している時とは異なる人格の存在はむしろ当たり前のこととして捉えられる。
それは、逆も然り。自分が他の人や立場で接している時は、「あの人」といる時とは異なるモードの人間になっているはずだ。つまり、お互いに複数の人格でもって形成された自分というものと付き合っている。
平野氏の概念がユニークなのは、上述のとおり確固たるブレない「本当の自分」の存在を否定している点だ。都度都度あらわれる自分(=分人)の全てが本当の自分だ。自分というのはそれら分人の集合体に過ぎない。
もっと過激な言い方をすると、これだと決まった自分は存在しない、ということだ。
「分人」の生き方
では、様々な人格を一人の人間として生きるというのはどういうことなのか?非常に複雑な人格コントロールのようなものが必要なのかというとそんなことはない。
分人は分数
個人を整数の1だとすると、分人は分数。
職場での分人、家庭での分人、友人との分人などそれぞれ全体1の個人を構成する分数となる。対象が増えれば増えるほど分母(=分人の数)は増える。分母だけでなく、分子も相手との関係が深ければ深いほど増えていく。図にするとこのような円グラフになる。
上図はイメージのために簡略化しているが、実際にはもっと多くの分人が存在しているだろう。
特徴は、関係性の深さによってパイの大きさが変化している点だ。全ての分人が対等なわけではない。
こうした円グラフは関係性が生まれた後、事後的に作られ、どんどん変化・更新され続ける。
「中心がない」のも重要ポイントだ。
分人のネットワークには中心が存在しない。なぜか?分人は、自分で勝手に生み出す人格ではなく、常に、環境や対人関係の中で形成されるからだ。わたしたちの生きている世界に唯一絶対の場所がないように、分人も、一人一人の人間が独自の構成比率で抱えている。そして、そのスイッチングは、中心の司令塔が意識的に行なっているのではなく、相手次第でオートマチックになされている。
(「私とは何か」より)
たしかに、意識的に自らの引き出しの中から特定の人格(分人)を都度選択している感覚はない。もっと反射的に人格が飛び出してくる感覚の方が近い気がする。
ひとりの時の分人は?
「本当の自分」の考え方でいうと、部屋に一人でいる時がまさしく「本当の自分」。だが、平野氏はそれは違うという。学校でいじめにあったことを悩んでいるときは、学校の分人を引きずっている。家で映画を見て感動しているときは、映画に没入した分人になっている。
つまり、同じ一人の状態であっても『様々な分人を入れ替わり立ち替わり生きながら考え事をしている』。
私という存在は、『他者との相互作用の中にしかない』といえるのだ。ここでいう他者というのは、人に限らず、自分に影響を与えるメディアや環境など外なるもの全般と考えた方がいいだろう。
もし本当の自分が一人の時だけなのだとしたら、他者との交流を断ち、ずっと一人でいないと本当の自分ではいられ続けられない。誰かといる時は常に本当の自分ではないのも違和感があれば、真に一人という状態は一切の外部接触を絶っている状態でこれまた起こることはない。
と考えると、相互作用の中にしか私がいないというのは、真なのかもしれない。
分人主義のメリット
自分の好きな分人を重視する
いじめにあっている自分も、パワハラにあっている自分も、紛れもない自分。学校や職場における分人だ。だが、個人が様々な分人を持ち合わせている中での一つの分人に過ぎないとも言える。
その歪(いびつ)な、不本意な分人を重視するかどうかは、本人次第である。自分の中で、価値の序列をつけることはもちろん、可能だ。
(「私とは何か」より)
対人関係での悩みは尽きないものだが、気に入らない対人関係における分人は重視しなければいい。間違っても、自分の命ごと消したいと考えてはならない。消したいのは、あくまで数ある分人のうちの一つに過ぎないのだから。
他に存在する居心地のいい分人を優先し、その分人の重要度を「分人の集合体である自分」の中でもっと増やせば幸せも増える。
重要なのは、常に自分の分人全体のバランスを見ていることだ。いつだって自分の中には複数の分人が存在しているのだから、もし一つの分人が不調を来しても、他の分人を足場にすることを考えれば良い。
分人のバランスを整えることで、幸せをコントロールできるのだと考えれば、気が楽になる。
人は、なかなか、自分の全部が好きだとは言えない。しかし、誰それといる時の自分(分人)は好きだとは、意外に言えるのではないだろうか?逆に、別の誰それといる時の自分は嫌いだとも。そうして、もし、好きな分人が一つでも二つでもあれば、そこを足場に生きていけばいい。
それは、生きた人間でなくてもかまわない。私はボードレールの詩を読んだり、森鴎外の小説を読んだりしている時の自分は嫌いじゃなかった。
(中略)
誰かといる時の自分が好き、という考え方は、必ず一度、他者を経由している。自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点である。
人は他者や何かとの相互作用の中にしかいなく、自分が好きというのも、必ず何かとの相互作用が起きている自分のことが好きだということ。頭にスッとは落ちてこない概念だが、冷静に考えてみるとその通りだ。
複数の相互作用で分人が生まれ続ける中で、自分が特に好きな分人を足場や拠り所にして生きていけばいい、というのはシンプルかつ実行しやすいのではなかろうか。
悩みの半分は他者のせい
分人は他者との相互作用で生まれる。
よって、そこで生まれた分人がネガティブな人格の場合、その責任の半分は相手にあると言える。
逆に、ポジティブな分人の場合でも、半分は相手のおかげということになる。
一人の個人が複数の分人から「のみ」構成されているということは、個人として抱えている悩みの半分は他者のせいと考えることができる。
自分があれやこれや悩んでいることの半分は、他者のせいなのか。そう言われてみると、そうした捉え方もできる。会社がいやだ、上司がいやだ、部下がいやだ。どれも半分は相手が悪い。心持ちを軽くできる考え方だ。
分人主義で気をつけること
特定の人を存在ごと否定しない
仮に自分が誰かを嫌っているとして、それはあくまで嫌っている人との間に生成された分人に生まれた感情に過ぎない。しかも、上述のとおり、半分は相手、半分は自分のせいでもある。自分が相手の分人を嫌っていても、その相手の異なる分人のことをとっても好きな人もいないことはないだろう。少なくとも自分が知らない分人が相手の中には確実に存在している。である以上、相手を人として丸ごと否定することは賢明な選択とは言えない。嫌いなのは、相手の分人の一つでしかないのだから。
と言いつつも、ヒトラーのような極悪人は全否定したくなってしまうのぉ。
ここで述べられているのは、様々な視点から深掘りされた歴史的な人物ではなく、あくまで自分が生活している中で見知っている周りの人に関する捉えた方とした方がしっくりくる。
八方美人ではない
複数の分人を生きていく、と聞くと八方美人になるということ?と感じるかもしれないが、平野氏はその真逆だという。
八方美人とは、分人化の巧みな人ではない。むしろ、誰に対しても、同じ調子のイイ状態で通じると高を括って、相手ごとに分人化しようとしない人である。パーティならパーティという場所に対する分人化はしても、その先の一人一人の人間の個性はないがしろにしている。だから、十把一絡げに扱われた私たちは、「俺だけじゃなくて、みんなにあんな態度か!」と八方美人を信用しないのである。
(「私とは誰か」より)
見境なく媚を売り、ゴマをすっている人のことを嫌悪するのは、その人がそれぞれの相手を尊重することなく柔軟に分人化していないから、というのは納得感がある。そういう人は、自分のこともさして尊重することなくコミュニケーションを取っている可能性がある。結果、その人に向けた分人の優先度は下げたくなるだろう。
筆者はこうも言う。『ロボットと人間の最大の違いは、ロボットはー今のところー分人化できない点である』と。とてもわかりやすい。ロボットやAIをひんやりしたものと感じるのは、自分に対して分人化をしてくれず、あらかじめインプットされたプログラムに沿った画一的な反応しかしてくれないからだ。調子のいいロボットがいれば、それはすなわちただの八方美人ロボットに映るのだろう。
ひきこもる苦しみ
『引きこもりには、対人関係を遮断することで、「消したい分人」を消滅させる一面がある』。これには、優先したくない他の人との分人の比率を下げ、優先したい一人の時の分人比率を上げるメリットがあるように感じる。
しかし、引きこもると新しい出会いがなくなることで『ただ過去の分人しか生きられなくなり、「変わる」ということがますます難しくなる』という。
『私たちは、日常生活の中で、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている』。一つの分人の居心地が悪くても、他の分人で調節するということが引きこもっていると難しくなる。いつも同じ分人でいることは、監禁されているような大きなストレスを伴う。なぜなら、『人間は、たった一度しかない人生の中で、出来ればいろんな自分を生きたい』からだ。その証拠として、平野氏は小説や映画などへの感情移入やコスプレの願望など、人にはフィクションの世界との分人化願望があると指摘する。
まとめ
◉分人とは他者や環境との相互作用で表出する人格
◉分人それぞれが本当の自分で、個人は分人の集合体
◉単一で「本当の自分(=自我)」が存在するというのは幻想
◉分人はその時々で常に更新され、変化し続ける
◉分人は事後的に形成されるが、自分としての分人の重要度は変えられる
◉個人を1とした時に分人は分数。重要度に応じて割合の大きさは変化する
◉ 私という存在は、他者や外部との相互作用の中にしかない
「分人」という考え方はとても新しい。
何せ、本当の自分なんてどこにもいないよ、と言っとるのじゃからインパクト大じゃ。
これだけ新しい考え方ゆえに、まだワシの頭が完全に追いついていないというのが正直なところじゃ。
しかし、この考え方には大いなるポテンシャルを感じておる。
「すべての悩みは対人関係」とアドラーが言ったが、分人の考え方を当てはめると、「すべての悩みは分人関係」じゃ。
分人関係は、良しも悪しきもお互い様で、半分は相手なり環境のせい。かつ、人は複数の分人を持っていて、分人ごとの重要度を任意でコントロールできるとなると、すべての悩みは軽減しやすいように感じるし、より幸せを増やしていくような行動にもつなげやすい。
Twitterや日頃の対人関係でも、思わぬ人が思わぬ思想を持っていて良くも悪くも驚くことが少なくない。じゃが、この分人思考を持ち込むと、それはそれであり得ることとして頭の整理がつきやすいのはたしか。自分が知っているあの人は、単にあの人のいち分人でしか過ぎないのじゃと。
分人を意識しながら生活し始めると、
「今の分人は何者ぞ?」
「今の分人の幸せ/不幸度合いはいかに?」
などと自問自答することが増えるw
若干頭が混乱しがちじゃが、分人思考で捉えると、次のステップを考える視野が広がったような感覚になる。
どこかポジティブで開放的なんじゃ。
これが、分人主義が秘めるパワーじゃ。未来がさらに拓かれていく感じがするんじゃ。
19世紀に夏目漱石が個人主義を広めたように、同じ作家である平野啓一郎氏から次なるステップとしての分人主義がどんどん広がっていくのかもしれん。
これからも分人主義のウェブサイトや平野氏の小説を通じて、分人の考え方がさらに磨かれていくことに期待じゃ。
おすすめコンテンツ
分人主義オフィシャルサイト
本書の著者、平野啓一郎氏が自ら立ち上げたサイト。
分人についての簡潔な説明があるだけでなく、一人ひとりの分人イメージを円グラフで表示してくれるコンテンツまである。
7分でわかる分人主義(動画)
上述のサイト内にもあるこれまた平野氏自身が監修した動画。
グラフィカルでわかりやすい。